平成28年3月27日(日)今にも雨が落ちてきそうな
肌寒い日『やばせ歴史探訪会』に参加しました。
『やばせ歴史探訪会』
主催:八橋振興会
3月27日午前8時30分「jr八橋駅」前に集合。
参加料 :300円(地元商店商品券300円付き)
終了予定時間:12時
集合場所の「八橋駅」は、八橋海水浴場が近くにあるため
以前は、とても賑わっていましたが、最近では、自家用車の
普及と共に、だんだん寂しくなってきました。
また、鉄道も単線で普通列車のみ停車します。
現在では、お洒落にリニューアルされ、一部が「八橋ふれあいセンター」
という地域交流施設となっています。
この日、八橋駅前に集まった『やばせ歴史探訪会』の参加者は、
およそ50~60人くらいではないかと思います。
受付・準備体操の後、2班に分かれて出発!私は後発組。
お天気を気にしながら八橋駅前を出発しました。
地図を片手に、町会議員の高塚さんのテキパキと要領の良い説明を
聞きながら、なるべく遅れないようについて歩きます。
しかし、デジカメで写真を撮りながらなので、どうしても遅れがち。
小走りで、追いかけます。
しばらく行くと、毎年お正月に初詣に行く諏訪神社に着きました。
諏訪神社は、貞観3年(861年)清和天皇が信濃の国諏訪から歓請されたと伝えられています。
明暦元年(1655年)再建され、明治5年(1872年)諏訪神社となりました。
お諏訪さんとも呼ばれ、10月のお祭りには、伝統の神輿と山車の行列が続きます。
諏訪神社から見た八橋の町並み。
お天気地蔵さんも、綺麗な花が供えられて。 かって大八車の製造所があったところ。
海岸沿いの道を進むと
八橋は城下町です。
町の至るところに、当時の名残があります。
かって八橋には、山陰道(伯耆街道)が通っていて、
陸上や海上などの交通が栄え、経済や軍事上の重要な拠点
だったようです。
奈良時代から使われていた道で、八橋と倉吉を結ぶ道を「八橋往来」と
米子と鳥取を結ぶ道「伯耆街道」が、通っていました。
街道沿いに、宿屋や商店が並び賑わっていました。
八橋の東部で倉吉に向かう八橋往来が分岐し、江戸時代の
早くから宿駅とされ、法令規制などを知らせる制札場も
置かれていたそうです。
八橋には、沢山のお寺があります。
今は、廃寺となったこのお寺も、
この日は特別にご開帳されました。
歴代の「八橋城主」が眠る 体玄寺
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、
「八橋城」は、中村一栄公が城主となりました。
体玄寺にある「中村一栄公の墓所 」
その後、元和3年(1617年)池田光政が鳥取藩主
になった時一藩一城制で廃城となりました。
寛永九年(一六三二年)池田光仲入国後、津田氏が八橋を領有し、
以後明治維新まで陣屋を置いて治めた。
昨年秋鳥取にある「池田墓所」に行った時の動画
→ https://youtu.be/c735JT99Q7s
津田家の菩提寺である体玄寺(南西二〇〇m)の西側、
小高い丘の上に津田家の墓所があります。
圧倒する程雄大な墓碑十一基が往時の面影を残しています。
八橋城跡(昭和49年5月1日・町指定史跡)
八橋城跡は、山陰線の開通により分断されてしまいました。
今では、ほんの1部の石垣を残すだけで想像すら出来ません。
八橋城跡に上ってみると、八橋が一望できます。
城山としては、小さくも高くもなかったが、街道に沿う要衛で戦国時代、毛利、尼子の攻防の城となった
慶長5年(1600年)中村一栄が伯耆一国を領有し3万石の城主となった。呼び名も始め「大江の城」その後城主の移り変わりと共に「立石城」「津田城」と変わっている。元和3年(1617年)一国一城制となり八橋城は廃城となった。
寛永9年(1632年)鳥取城主池田光仲は着座家と称される重臣
津田将監元匡に領地(八橋)の町政を委任し「自分手」といわれる
独特の町方政治が行なわれ、幕末まで続いた。
(全文 八橋見どころマップより)
そして、八橋と言えば忘れてならないのが、小泉八雲。
「耳なし芳一」などで有名な作家。
小泉八雲は新婚旅行で八橋の旧中井旅館に宿泊し
八橋をとても気に入り海水浴や散策を楽しんだそうです。
八橋海水浴場には、小泉八雲の記念碑が建立されています。
旧中井旅館は、平成元年に閉館、
平成21年には建物の改修が行われました。
ここでは、いろいろなイベントが行なわれます。
「江原酒造本店」
明治26年創業の老舗「江原酒造本店」平成10年、鳥取県民建物100選に選ばれています。建物は昭和5年御来屋の呉服店の建物を解体移築した。
材料は総檜造りで、幅30cm10mを超す大黒柱、7段組の梁、
珍客門、帰らざる門、一般門と特異な構造となっている。
(八橋 見所マップより)
最後に八橋の由来
その時空は急に曇り川の上には雲が覆いかぶさった。
まるで、八つの蛇橋が重なって架かっているようであった。
「高姫神」は恐れて心の中のスサノオの御霊に加護を念じたところ、
八岐大蛇がの霊魂は、消え去った。
このときから、この川を「加勢蛇川(かせいちがわ)」と名付け、
この地を「八橋(やばせ)」というようになった。
(東伯町史より)
長い間八橋に住んでいながら、見ること・聞く事
知らないことが多く、改めて八橋の町の至るところに
歴史の足跡が残っていることを知りました。
幸いにも心配していた雨も降らず、あっという間の3時間でした。
楽しい時間でした。
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カテゴリ:琴浦町イベント・催し 琴浦町名所 [コメント:0]